こんにちは!ひ~ちゃんママです。
私の町の鹿嶋神社は、かつては現在海になっている沖ノ島にあったと言われていて、竜宮伝説にもなっているという歴史的な遺産です。
その鹿嶋神社ですが、拝殿の彫刻が素晴らしいんです。
日光の東照宮の「見猿、聞か猿、言わ猿」の彫刻の素晴らしさは、誰でもしっていますよね。
日光の東照宮同様、鹿嶋神社の彫刻も今にも出てきそうなほど、立体的です。
今回は、この素晴らしい鹿嶋神社の彫刻が、いつ作られたのか、誰が作ったのかなどについて調べてみました。
鹿嶋神社の歴史
鹿嶋神社は、かつては現在の海にある沖ノ島にあったと言われています。
海岸の浸食によって、現在の場所に移されました。
私が幼い頃は今よりもかなり広範囲に砂浜があったのですが、現在は浸食されて本当に砂浜が少なくなりました。
ですから、現在海になっているところが、昔は陸だったというのは想像が付きます。
きっと、江戸時代、さらに古い時代には今よりもずっと北側に、神殿があったに違いありません。
そして、今の神社よりもかなり大きかったのではないかとも言われているそうです。
もともと、現在の朝日町、入善町、黒部川の左岸の一部の総社だったそうです。
日本海の要塞として海上安全を祈り、中世には宮崎城のある位置から、北陸の宮を迎え入れたり、上杉景勝、織田信長の祈願所にもなったと言われています。
江戸時代になり、加賀藩の領地となり前田藩から特別な庇護を受け、参勤交代の折には、加賀藩主がこの神社を参拝したそうですよ。
鹿嶋神社造営と彫刻について
現在の鹿嶋神社の造営は、明治9年に開始されました。
神社の建築は、本体工事を担当する宮大工と装飾彫刻をする大工は、分業制だったそうです。
装飾彫刻を担当したのは、北村喜代松という人です。
北村喜代松は、今の新潟県糸魚川市市振の宮大工の長男として生まれました。
親元で修行した後に江戸にでて山車彫刻の修行をしたそうです。
現在宮大工と呼ばれる方は大変貴重なようですが、当時は沢山の方が活躍しておられたのでしょうか。
昔は、各地区に鎮守の神様として神社があり、大きな山車もお祭りになると出ることが多かったですよね。
そう思うと、宮大工として活躍した方は、数多くいらっしゃったのかもしれません。
鹿嶋神社装飾彫刻の見どころ
鹿嶋神社の装飾彫刻の主題は、日本神話「八岐大蛇退治」だそうです。
八岐大蛇の話というと、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が主人公ですよね。
私も昔祖母が話してくれた様な記憶があります。
非常に簡単に言うと、高天原で乱暴を働いたスサノオノミコトが追放されて、出雲の国に来て、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という、八つの頭と八つの尾をもつ怪物と戦い、勝利するという話です。
その戦いの要因になるのは、クシナダヒメという美しい女性を救うために戦う事になります。
そして、戦いに勝つために、強い酒を造り八つの甕に入れて,ヤマタノオロチに飲ませて酔い潰れて眠ったところを成敗します。
そのヤマタノオロチの尾からでてきたのが、「草薙の剣」です。
今年令和元年は、この「草薙の剣」が注目されましたね。
天皇陛下が退位され、新天皇が即位されるときに、三種の神器の一つとしてテレビでも話題になりました。
この写真に見える右側の人物がスサノオノミコト、左側がクシナダヒメだそうです。
スサノオノミコトが草薙の剣を持っていますよね。
とても立体的に表現されています。
ちょうど二人の間に、ヤマタノオロチがいるようです。
その他、まわりにも龍や獅子などが掘られていますが、今にも出てきそうなほどの迫力です。
これほどの、彫刻を彫った北村喜代松という人の他の作品も見てみたいと思います。
きっと、どこか他の神社にもあるのではないでしょうか。
まとめ
今回は、私の町の有名な鹿嶋神社の彫刻について調べたことをまとめてみました。
彫刻は、神話の中のヤマタノオロチ退治がモチーフになっていることが分かりました。
神話をモチーフにしたことは、この神社が神話とも関係があるほど由緒があることから来ているのかもしれません。
神話の世界とつながっていると思うと、さらにこの神社がとても貴重な文化財のように思いました。
ぜひ、この彫刻を見に来てくださいね。