奥の細道は、言わずと知れた松尾芭蕉の紀行文、俳諧集です。
私の住む町には、松尾芭蕉の句碑が建てられています。
松尾芭蕉は、新潟の市振で宿泊し、境の関所を通って金沢へ向かったそうです。
今回は、朝日町の芭蕉の句碑や芭蕉の通った北陸ルートについて紹介します。
芭蕉の句碑のある場所
芭蕉の句碑があるのは、旧街道の道の縁です。
今では、「ここが芭蕉の句碑のあるところですよ。」
と言われないと、誰も見てくれないようなひっそりした場所にあります。
しかし、句碑自体は大変大きくて立派な石碑です。
芭蕉が通った道は定かではありませんが、有磯海を右手に見ながらきっと歩いていたと思います。
そのころ、私の住んでいる地域、黒部川扇状地は大変川が多く四十八ヶ瀬とも言われるほど、多くの川を渡っていったと言われています。
句碑のいわれ
この句碑は昭和52年10月1日に町の史跡に指定されています。
朝日町の句碑に刻まれているのは次の句です。
「早生の香や分け入る右は有磯海」
「丁度稲が実る時期に、その早生の香りの匂いを感じ、そして、右手に見える有磯海の荒波を詠んだのでしょう。」
と、私は思っていたのですが、実はこの句碑にはちょっとした曰くつきのようです。
というのは、富山県新湊市にも同様の句の句碑があるからです。
「えっ!どういうこと?」
って思いますよね。
実は、この句は従来新湊あたりで吟じられたと言われていました。
ところが、文政のはじめ頃、当時のこの朝日町の村役伊東彦史郎という方が、芭蕉の資料を手に入れ、今までの説を覆し、新潟から境の関所を超えてこの地に入ったときに詠んだ句であるという説を発表して、この地に句碑が作られたのだそうです。
どちらの説が正しいかは分かりませんが、でも有磯海が綺麗に見えて、早生の香がするというのは、丁度この時期北陸道を通った芭蕉にとってはどこも同じように素晴らしい風景だったのではないかと思えます。
奥の細道と北陸ルート
松尾芭蕉が、江戸を立って奥州から北陸を通り、大垣までの約600里をたった150日で徒歩で俳句を詠みながら旅をしたのは、驚異的だと言われています。
ちょっと、600里というのはよく分かりませんよね。
600里というのは約2,400キロメートルだそうです。
記録から見ると
江戸を立ったのは、桜の頃の3月27日
その後、日光から奥州松島を通り、7月初旬には越後(今の新潟県)に入っています。
北陸ルート越後(新潟)
越後で詠んだ句は大変有名です。
荒海や 佐渡によこたふ 天の川
新潟県の市振で詠んだ句が
一家に遊女も寝たり萩と月
です。
この句、横溝正史の小説に出てきますよね。
遊女も一緒に宿で休んだのでしょう。
北陸ルート越中(富山)
北陸に来たのは、時期としては旧暦の7月中旬、新暦では8月下旬のようです。
富山県で詠んだのはこの一句のみです。
早生の香や 分け入る右は 有磯海
そして、高岡で宿泊し、倶利伽羅峠を通って石川県金沢に入ります。
この頃芭蕉は、体調が優れなかったと言われています。
あっという間に富山を過ぎて、金沢に向かったようですよ。
ちょっと残念ですね。
北陸ルート越中(金沢~小松)
金沢では、多くの方々にとても歓待され、10日近く滞在していたそうです。
ここでは愛弟子一笑の追悼句として、悲しい句を詠んだと言われています。
塚も動け 我が泣く声は 秋の風
秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
しをらしき 名や小松吹く萩すすき
石川県小松では、次の一句を詠んでいます。
むざんやな 兜の下のきりぎりす
早生の香俳句
現在、朝日町では早生の香俳句大会が、年に一回開催されています。
小中学生を初めとして、多くの方がこの会に自分の俳句を応募しています。
最近では、俳句はテレビ番組でも結構人気がありますよね。
小学生の俳句の中にも、大変優れたものがあり、感心させられます。
芭蕉の思いが今でも町の人々の心に通じていると思うと、感慨深い物があります。
まとめ
芭蕉の通った奥の細道の北陸ルートについてまとめてみました。
実際に芭蕉が通った道は現在の道とは異なるとは思いますが、それぞれの地に句碑が残されていることに歴史を感じます。
ぜひ、全ルートを一度訪ねてみたいと思っています。
全ルートを訪ねたときには、またこのブログで紹介したいと思います。