こんにちは!ひ~ちゃんママです。
関所って知ってますか?
時代劇によく出てきますよね。
今で言うと県境の検問所の様な物です。
我が町は県境にあるので、明治に入るまでは境地区に関所がありました。
今でも関所跡が残っています。
今回は、その時代劇にも出てくる関所跡を訪ねてみました。
境関所の大門
これは、関所の大門の復元です。
境地区は、西側がすぐ山、東側がすぐに海という場所にあります。
ですから、ここを通らなければ山の中を通って行くか、海を渡るかしかないという場所になります。
この大門を通らないと新潟へも行けないし、新潟から富山にも入ることは出来ません。
この説明にあるように、旅人が通る街道に大門が建てられていて、一度の沢山の人が通ることが出来ないようになっていたのですね。
現在この大門が建てられている場所は、以前は小学校があった場所です。
明治になるまでは関所がありましたが、その後小学校が建てられました。
小学校が廃校になった後に、ここに再度大門が復元されたようです。
境関所はいつから
境の関所は、いつ出来たのでしょうか?
この説明にあるように、江戸時代初期のようですね。
この地は、現在は富山県ですが江戸時代は加賀藩の領地でした。
富山藩という藩はありましたが、富山藩は大変小さな藩で、今の富山市が概ね富山藩の範囲と言っていいと思います。
つまり、加賀藩に囲まれて富山藩があったと言うことです。
このへんのことは、富山城=富山市郷土博物館にいくとよく分かります。
したがって、この境の関所は加賀藩の管轄だったのです。
加賀藩は、この関所により治安の維持に努めていたのですね。
明治2年に廃止され境小学校が建てられました。
現在では、その境小学校もなくなり「関の館」という資料館になっています。
境関所の役目
現在は、大門しか見ることが出来ない境関所ですが、昔はこの図のように大変広くて多くの建物があったようえす。
関所は、「国境の治安維持」と「通行人の管理」が主な役目だったようです。
この関所の説明に書かれている文を引用すると次のように書かれています。
境関所には、岡番所と浜番所があり陸上と海上の警備を行った。岡番所内には藩主の宿舎となった「御旅屋」、関所役人の官舎の「御貸屋」や塩倉、土蔵、牢、地区の西方に離れて「刑場」もあった。また、背後の山には国境街道と海上の見張所でもある「御亭」を設けて、陸海越境者の監視にあたり、境関所の厳重さは日本随一と言われた。
この説明から考えると、その当時、山や海を通って罪人などが逃げようとしていたのでしょうか。
よく脱藩などと言う言葉を時代劇や時代小説の中にも出てきますので、そんな人も関所を通らず通行しようとしていたのを監視していたのかもしれませんね。
現在も境地区は道沿いに多くの家が建っていますが、その当時は関所の役人たちが住む一大住宅スポットだったことでしょう。
あと、刑場もあったというのも驚きでした。
ここで、大岡越前にでてくるようなお裁きもあったのでしょうね。
境関所跡の周り
境関所跡の周りには、その当時の池の復元されている場所もあります。
実際にはもっと大きかったようですが、役人などがこの池で心を癒やしていたのでしょうか。
また、この関所跡には「関の館」と言われる施設があります。
関の館の中には、当時の関所についての資料もありますので、ぜひ訪れて見てください。
もう一つ興味深い史跡があります。
これは長谷川地蔵というお地蔵様です。
このお地蔵様には大変悲しいお話があります。
詳しいことは、違うページで紹介します。
長谷川地蔵についてはこちらから
まとめ
今回は、県境の要塞として重要であった、境関所跡に行ってきたことを紹介しました。
町の中には、こんな歴史に重要な地があることって凄いですよね。
きっと昔は、この関所を多くの旅人が立ち寄ったのでしょう。
松尾芭蕉の奥の細道北陸路ルートを考えると、芭蕉翁もきっとこの関所を通ったことでしょう。
そんなことを思いながらこの地を訪ねてみました。
日本全国には同様の関所跡があることでしょうね。
ぜひ、そんな場所を訪れてみたいです。