こんにちは!ひ~ちゃんママです。
歴史の散策をしていると、その歴史的な遺跡や場所にまつわる「言い伝え」や「民話」「お話」などと出会うことがあります。
例えば、私の住んでいる町には「親鸞聖人が杖をついた場所」というところがあり、大きな木の下に石碑が建てられています。
その場所にまつわる話は、親鸞聖人が全国行脚をしているときに、この地を訪れてお休みになられたときに、杖をついたところ、水が湧き出たという話です。
日本全国には同様の話があるようですね。
さて、今回は富山県と新潟県の県境にあった、境の関所にまつわる話、長谷川地蔵についてです。
ちょっと悲しいお話ですが、その当時の情勢を考えるとあり得る話だなと思って、調べてみました。
関所という非常に当時の政治的な要所であるので、そこに住む人々の悲哀もこもっているのかもしれません。
では、紹介しますね。
境の関所については、他のページでも紹介していますので、ご覧ください。
境の関所にまつわる悲しいお話
これは長谷川地蔵と呼ばれる石碑です。
全部で四つのお地蔵様が描かれていますね。
このお地蔵様たちは、江戸時代加賀藩の越中国境関所で起こった悲劇が発端なのです。
話の内容は、以下のようです。
江戸時代、今の富山県と新潟県の境には、軍事、警察上の必要から関所が設置されていました。
そして、加賀藩士が関所奉行として、関所の役目を担っていました。
2代目関所奉行は、長谷川宗兵衛という加賀藩士でした。
その当時、関所には掟があり、他の藩との縁組みは禁止されていました。
ところが、長谷川宗兵衛は、この縁組み禁止の掟を破り、自分の娘を越後の国(今の新潟県)の市振に嫁がせました。
その理由は、越後の国の情報を娘を通じてつかもうとしていたと言われています。
このことは、前田利常(加賀藩2代藩主)も承知していたそうです。
ところが、加賀3代藩主前田光高が、このことを知り大変怒りました。
そして、掟を破ったことを咎められます。
宗兵衛、長男、次男は、切腹を命じられ、切腹して果てました。
三男の宗吉は、大変小さかったので、密かに寺院にかくまわれていたのですが、見つかってしまい宗吉も斬罪となったそうです。
後に村人たちは、この父子のことを大変かわいそうに思って、お地蔵様を建てたと言うことです。
長谷川地蔵の話から見えてくること
当時の関所の役割
この話を聞くと、現代の私たちには大変理不尽なことのように思いますよね。
その一つは、藩のために他国の情報を得ようとした宗兵衛の思いです。
関所の役割は、県境の警備に当たることです。
この境の関所は、南側がすぐ山、北がすぐ海という立地条件にありました。
ですから、陸地を警備する岡番所と、海上の警備に当たる浜番所が置かれていました。
そして、江戸時代初期の頃の大きな役目は、加賀藩を他国の侵略から守るためと、百姓が逃げるのを防ぐためだったそうです。
例えば、隣の国に一揆が起こり、我が藩にも影響があるかもしれないとか、江戸幕府がまだ十分に全国に力を発揮できていない場合は、やはり様々な不穏な動きもあり、他国の情報は必要だったのかも知れません。
奥の細道の松尾芭蕉もスパイだったのではと言う話もあるくらいで、その当時の諜報活動は、藩主にとっては必須だったことでしょう。
そう思うと、前田利常がそもそも命じたのではないかとも思えるくらいです。
理不尽な処刑
そんな加賀藩を守るために、自分の娘を隣の国に嫁がせるということも本来ならば大変恐ろしいことだと思いますし、娘も自分がスパイのようなことをすることを承知で嫁ぐというのも、大変な事ですよね。
そんな、自分や娘を犠牲にしてまで藩のために尽くしたにもかかわらず、親子4人が罪を問われて殺されるのも理不尽です。
さらに、前田利常がそれを承知していたというのに、息子の光高が処刑をしたというのもどうしてなのだろうという疑問が湧きますよね。
一方、嫁いだ娘がどうなったのかも調べてみたい物です。
まとめ
今回は、境関所にまつわる長谷川地蔵の話についてまとめました。
その他、私の町には昔から伝えられた多くの民話が残っています。
そんなお話を一つ一つ紐解いていくのも興味深いですし、また子供たちに伝えていくことも必要なのではないかとも思っています。
機会があれば、それぞれの地を訪れてまとめてみたいと思っています。